第11回マレーシア・スタディツアーの記録とまとめです。

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                   はじめに
                                ツアーリーダー:相沢美智子

 今回のマレーシアスタディーツアーは、社会人ばかり6名という、今までにない小人数のツアーとなった。

 昨年の3月に「マレーシアスタディーツアー」委員会が発足した。しかし、当初より参加希望者が少なくどうなるのかと思っていた。理由はいくつか考えられる。最大の理由は、今までツアーの企画等すべてにおいてリードをして下さった新津先生がICUを退職され、インドに赴任となり参加出来なくなったこと。それによりICUの学生募集も積極的にできず、学生が一人も参加しなかった事。

一昨年にプレ・マレーシアツアーを行っており今回は2度目になるメンバーが多くあまり興味をもてなかったであろう等々。という事で社会人6人全員の協力で何とか作り上げたツアーとなった。

 今まで学生さんに頼り切っていたルート作りから、飛行機の手配、ホテル手配等慣れない仕事に悪戦苦闘した。現地の方とのコンタクトも英語が苦手とはいっておれずに辞書を片手に何とか乗り切ったのである。

 今回のツアーはNGO等の訪問も予定になく、現地の方々との交流が目的の、ホームステイが一番の目玉であった。しかし、そのホームステイに関するコンタクトがうまくいかず、最後までやきもきしたが、UKMラシーラ先生のご協力も頂き、私達の望んだ農村地帯でのホームステイと、海辺近くのホームステイという違った環境を体験できたのである。

 今回、マレーシアスタディーツアーを実施して、振り返って見ればいくつかの収穫があったように思う。ひとつは、新津先生が私達に教えて下さっている、「真に現地の方々と言葉を交わす、生活を体験する、という民際交流」が、曲がりなりにも先生の参加なしに出来たことである。これはスタディーツアーの概念が我々に焼き付いているからか?それから、ツアーを人任せにせず、一人一人が自覚を持って作り上げたこと。

もちろん、毎回の研究会で、課題をつくっての勉強発表も定着し、当たり前のように実施出来たこと等治安に問題の無いマレーシアだったのも幸いし、公共の乗り物を最大限利用することも出来、その点も現地を楽しめたように思う。

 参加者全員50才を過ぎた社会人であるが、前より、少し成長をさせて頂いたツアーとなったように思う。ご協力頂いた会の皆様、新津先生、マレーシアのラシラ先生、現地でお世話になった皆様、留守を引き受けてくれた家族に心より感謝申し上げます。

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            独立からプトラジャヤ首都機能移転まで

                                         池田和子
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 マレーシア国旗について:第二次大戦から50年代初頭まで使用された旗赤と白のしまが7本ずつ、13の州イギリスの国章とマレーの象徴であるトラが1つの連邦地区を表す。星と三日月あしらわれているはイスラム教のシンボルです。

 マレーシア大学構内でのラマダン明けパーティーから私達は1993年首都機能移転先をプトラジャヤに決定、1995年開発計画と連邦政府の移転を閣議決定その年に建設開始2010年には完了するといわれているマレーシア連邦新都心プトラジャヤへ向かいました。車の中から連邦政府庁舎、各省庁舎等を見学し広場で車を降りました。
赤道近く早い午後の太陽は、頭の上からギラギラトと照りつけ白いアスファルトの地面の照り返しで目を開けていられないほどでした、見回すと視界をさえぎる物は何もなく巨大なプトラモスクと首相官邸がそびえたち各州から見学に訪れた小中学生達が小さな木陰で休んでいました。

 日本での首都機能移転計画は昭和50年2月新首都推進懇談会が発足、平成2年11月衆参両議院で国会等の移転に関する決議、東京一極集中の排除21世紀にふさわしい政治、行政機構の確立が審議されましたが実際には何も進んではいません。

 マレーシア連邦は1963年に成立、東南アジアの他の国とことなり過剰人口、資源不足、圧政、非能率的政府、極度な貧困の問題が起きませんでした、紀元2世紀ごろから中国、インドとの貿易がはじまると中国、インド人がこの地域に移住してマレーシアの経済を発展させ現在でも大きな役割をはたしています。
1957年マラヤ連邦はイギリスから独立し、憲法でマレー人に対して経済面の弱点を補う特別優遇措置を設け、いわゆるブミプトラ(土地の人)政策がとられています、マレーシア総人口の50%弱をしめる非ブミプトラと政治の中枢を担うブミプトラの国がこの様な壮大な計画を立て成功させた都市を見学し改めて日本の現状を考えました。

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              ホームスティ企画役にあたって
                                         市村圭子

 マレーシアでのホームスティを紹介するパンフレットには、“「ウェルカム」
「おかえりに」かわる出会い。”という言葉と観光大臣やスタッフの写真、色々な体験談が載っています。私は、それを読んでホームスティに対して国をあげて働きかけているという熱意を感じ、日本にあるマレーシア政府観光局を訪問すれば、色々な手続きが出来るだろうと安易に考えていました。

 まず始めに、政府観光局からは、マレーシアホームスティプロジェクトの会長に連絡を取ることを紹介してもらいました。丁度、会長さんが来日されているということで、大阪のホテルに電話をして、こちらの事情を話しました。その時の感じから、ホームスティの受け入れをしていただけるものと考えていました。そして、後日届いた会長さんからのメールに対して具体的な返事を出した時には、順調に話がすすむと思っていました。ところが、その後の連絡が全く来なくなってしまいました。再度何回かメールを送り、何か不具合があったのかと心配になり、政府観光局担当の方に相談したところ11月中旬からラマダン明けで事務が滞っているような話でした。
そのことから、イスラムのお祭りについて知ることも出来ましたし、他国とのメールでの交信の難しさを感じました。

 今回、企画役として結果的に具体的な計画を作ることが出来ませんでしたが、メンバー等のアドバイスなどで、「行けば何とかなる」という精神的余裕が必要であることも学びました。
 幸いにも、ホームスティが実行できたことは、マレーシア国立大学のラシーラ先生が、現地でホームスティプロジェクトと話を勧めてくれたことでした。
大学訪問の時にメンバーの紹介があり、その時点で初めて我々の滞在する場所と日程を知ることが出来ました。スティ先で何をするか具体的なことについて知らされていない分、かえって新しい発見が多く良い経験が出来たのではないか思います。

 偶然に、私達がマレーシアに滞在中、日本国内では、マレーシア50周年記念にむけてイベントが行われていたようです。丁度、カンポンの住民の中に訪問当夜、日本に行くという人も居て、日本に対してどのような国かと関心を持って話しかけてくれることもありました。その様なときにツアーができたことは何らかの意義を感じています。

 最後にホームスティのアレンジをしてくださったラシーラ先生、始めて日本人の私たちを快く受け入れてくださったカンポンの方々、そして最終日までお付き合いしていただいたプロジェクトメンバーの方、ありがとうございました。
とても良い思い出をつくることが出来ました。

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               ホームステイ・ロネック村
                                        相沢美智子
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 マレーシアのNEGERI、SEMBILAN州LONEK村に2泊のホームステイをした。そこは首都クアラルンプールから車で2時間弱ほどの静かな農村地帯である。

村の入り口周辺には水田が広がり、家々の庭にはマンゴー椰子の木、パパイヤなど何種類ものトロピカルフルーツが植えられていた。また、ゴムの林、アブラヤシサトウキビ畑、ランブータンの林、バナナ畑それからドラゴンフルーツ等何種類もの果物が栽培されていた。特にドラゴンフルーツは、近年タイから栽培が伝えられたと聞いた。その他ドリアンジャックフルーツといった木もあり、きわめて豊かな土地のように思えた。

初めてそれらをみた私にとっては大感激であったが、残念なのはどれも収穫シーズンに少しはずれており、鮮やかな果物の色に出会えなかったことである。しかし、どこまでも緑さわやかな景色は、本当に心がなごむ風景だった。村の家々はミナンカバウ様式の伝統的な建物で、これも私には感激のひとつであった。遠い昔、インドネシアから移住したミナンカバウの人々が住み着いた村であるからだそうで、その文化が今も続いている事にも感激であった。振り返って私達の周りを見れば、何でも効率を考え、目に飛び込む風景がどんどん変わっていくのとは対照的であると思った。

 私と池田さん二人のホームステイ先はおばあさん、お父さん、お母さん、子供5人という平均的な家庭であった。もちろんミナンカバウ様式の家である。暖かく迎えて下さった家族との会話は、多少の英語も交えて、ジェスチャーがほとんどであったが、ふしぎに、お互い話をしたような気分になった。

 滞在中なにかとお世話になったおばあさんは、76才だと聞いたが、今も立派に家の中心的な役割をになっているように思えた。お嫁さんが出産して間もない事もあるだろうが、朝早くから食事の支度等の家事全般を当たり前のようにしており、それがとても自然体の雰囲気なのである。家庭の中で、年齢相応に出来ることをそれどれがしている、という感じであった。「特別視されないで出来る仕事をする」と言うことは、年配の人にとってはいちばん幸せなのではと思えたのである。

 ちなみにマレーシアのイスラム教徒のお嫁さんは、出産後2ヶ月ほどは何もしなくていいそうで、赤ちゃんの世話も、上の子供や、おばあさんがみていた。女性には厳しいというイメージがあるイスラム教だが意外な事を知り、大いに感心し、これに関しては少しうらやましい感がした。また、伝統音楽の演奏を聴かせて頂いたり、ドゥードルという椰子の実の絞り汁を煮詰めたお菓子作りを体験させて頂いたりと、村の人々とのふれあいの中で充実した二泊三日であった。

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                ホームステイ・プーライ村
                                        相沢美智子
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 マレーシアでのホームステイ二カ所目は、マラッカ州海辺の村 PULAIという処であった。そこは、古都マラッカから車で30分ほど走ったところにあるマラッカ海峡に面した半漁半農の村である。村は明るく開けた感じで、やはり山の村とは違った風景であった。村の集会所でホームステイ先の方々と顔を合わせ、それぞれ振り分けられたステイ先の家に別れた。

 私のステイ先は村のリーダーの方の娘さんの家であった。車で家に着くと沢山の子供たちの笑顔が飛び込んできた。小さい子供たちから高校生ぐらいの子が、初めての日本人を興味津々の目と、暖かい笑顔で出迎えてくれたのである。聞けば三家族の子供たちだそうで、多いはずであった。(12〜13名程)

 親戚はみな近所に住んでいるらしく、入れ替わり立ち替わりで何人もの家族を紹介された。女性が多かったのはどうしてかしら?男の子は2人であった。子供たちは、自分の家や親戚の家を自由に出入りし、仲良く遊び、少しケンカをしたり、食事の時も一緒だったり親戚の仕事を手伝ったり、夜は泊まったりと、どの子が私のステイ先の子供なのか最後までわからなかった。

 私の子供の頃は、やはり親戚が近くにすんでいてお互い自由に出入りしていた頃を懐かしく想い出させてくれた。家の造りは、外から見るより中がとても広く、涼しくゆったりした作りであった。個室は家族の数に比べると多くなさそうだが、リビングのような広間があり、とてもゆったりしている。ベランダも屋根が広く雨期の季節は楽々洗濯物が入るようになっており、又子供たちの遊ぶスペースとしても十分な広さなのである。夜は、客人の私が一部屋を占領してしまったので、どのように寝るのかと心配していたら、そのひろいリビングに10人くらいが横に布団をならべて寝たのである。とても楽しそうで仲間に入りたかった程である。

 家族の人たちが皆、一生懸命もてなしをしてくれ、ここでも、一泊二日と短い滞在であったが、とても楽しく、新しい経験をさせて頂いたと思う。夕食は、参加者全員一緒に海辺近くのレストランで魚や貝類のおいしい食事を堪能した。朝食は、隣のお姉さん家族がやっている街道脇にある屋台のような茶店で、マレー風クレープと甘いミルク紅茶を頂き、そこにお客さんとしてやって来た近所の方々との思いがけない交流も楽しい一時であった。

 また、偶然、村の結婚式にも参加させて頂き伝統文化にも触れる機会が出来たのは幸運であった。大都市クアラルンプールや歴史の街マラッカも、興味深い街であったが、やはりホームステイでふれあった暖かい人々との交流は、何にも替えられない、貴重で忘れがたい思い出となった。

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               カンポンの生活と猫たち
                                         市村圭子
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 私にとって、農村と漁村の2箇所にホームスティしたことが、印象深いものでした。そのなかでも、あちらこちらで猫を見ることが出来たことや、猫のことを話すことによって、人との交流がスムーズになった気がします。
聞くところによるとカンポンでは一軒に最低1匹は飼っているか、もしくは外猫として庭に出入りしているようです。

 イスラム教では、豚・犬は不浄の動物のため飼うことはなく、犬を飼っている家は中国系の住民なのだということです。猫にとって天敵の犬が居ないので良い環境なのでしょう。子猫達が警戒せずに遊んでいる様子は微笑ましいものでした。

ホームスティ一軒目のオスの白猫は、私たちには知らん振りで自由気ままに広い敷地を走り他のオス猫と格闘していました。2件目メスの黒猫は、家の中に入って来ないようにと日中は狭い鳥小屋に入れられ、夜だけ出してもらい、その他に軒下の籠の中で飼っているという母猫と子猫3匹がいました。木工場を見学した時、その隣家のおばあさんは、猫9匹(子猫3匹、メス猫5匹、まだ若いオス猫1匹)を飼っているということで、次々捕まえてはと見せてきました。オス猫は大人になるといつの間にか居なくなり、メスばかりが残るそうです。でも、何匹かのメス達は、大きなおなかをしているので、また増えるのでしょう。それにしても、母猫は私が子猫を触っても怒ることないので、いじめられていないということが分かりました。

訪問した画家さんの部屋や庭は芸術家らしくきれいに装飾されていて、メスの茶白猫は、気取って家の中を歩きまわり、私が手を出すとちょっと爪を出したりしていました。

夜道、人家から離れた農道で車のヘッドライトに光る数個の目は、母猫と子猫が何かを捕獲しているところでしたが、野生の動物かと思ってしまいました。
元々、猫は夜行性動物ですが、カンポンの人たちの夜型なのにも驚かされます。1日目は夜9時過ぎからの夕食後、公民館で子供たちの楽器演奏の練習が深夜まで続きました。2日目の夜も9時45分頃からサティの屋台、3日目はシーフードレストランに行くという日課で私の体内リズムは狂ってしまい、寝られない日が続きました。朝6時半頃、コーランのお祈りが流れ、彼らは何時寝ているのだろうかと不思議に思ってしまいました。

猫好きの私でもこれは問題と思ったこともありました。
レストランでは、足元に猫が餌を求めてうろうろし、市場では明らかに病気と思われる猫がうずくまっていました。レストランの通路の床の上で糞をする猫もいました。それを誰がきれいに片付けてくれたのだろうかと未だに気になっています。餌の確保をする為に、猫も大変なのだと思う反面、猫嫌いの人には耐えられないだろうと思ってしまいました。

カンポンでは猫が居ても、それが当たり前の存在なのか、抱いたり触ったり、逆に追い払ったりする人の姿はほとんどないように見えました。
猫の特長については、日本の猫もマレーシアの猫も良く似ていました。以前、ヨーロッパの猫の写真に、日本の猫とそっくりなのを見たことがあります。それから考えると、かつて船に乗って移動してきたというルーツは同じかもしれないと思いました。

 この旅行では猫を見るだけでも退屈しない日々でした。聞くところによるとクチン(マレー語では猫という意味)の地には、猫の像まであるそうです。
次回マレーシア訪問時には、是非ともそこを訪れたいものだと思いました。 

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               マレーシアパーム椰子の話       
                                         辻 京子
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  飛行機がマレーシアのクアラルンプール国際空港に近づき高度をさげると眼下に規則正しく葉を放射状に広げたパーム椰子のプランテーションが見える。空港を出て市内へむかう高速道路の両側にもパーム椰子の樹が延々と続く。ゆるやかな起伏の丘を越えて目の届く限りパーム椰子の樹が赤道直下の陽光を照り返している。

 今回のマレーシアスタディツアーは新津先生がインド赴任中で参加されず、社会人のみ6名という今までにない取り組みとなった。ツアーの中心はクアラルンプール郊外の農村に2泊、マラッカ海峡をのぞむ村に1泊のホームステイである。
 
 クアラルンプールからコミューターで50分のUKMへ移動中も、市内から約2時間の距離にある農村のカンポンLonekへの滞在中(Negeri Sembilan州は母系社会の家族構成だった)も、快適な高速道路を利用して約2時間マラッカへの移動中も私たちの視野のなかに常にパーム椰子がみえていた。まだ植えたばかりの幼木、成長期にある樹、老木となった樹がどこまでもどこまでも続く。マレーシアといえばかつて錫とゴムが有名であったが今は反収が多く手間のかからないパーム椰子が主農産物となっている。

 パーム椰子は植えてから3年で実をつけ始め、約25年間の採取後に伐採というサイクルが早い樹である。果実は40〜50cmの大きな球形をしており、3〜4 cmの赤黒い楕円形の小果がぎっしりとついた集合体である。落ちていた小果を手にとってみると、テラテラと油っぽかった。この実からとれるパーム油の利用でよく知られているのは高級アルコール洗剤や石鹸だが、実は7割以上が食品関係に利用されている。

マーガリン、ショートニング、即席めんや菓子、外食店での揚げ油、その他の3割が化粧品や医薬品、工業用潤滑油などである。またマレーシアとインドネシアを合わせると世界のパーム油生産量の8割を占めているので私たちの日常生活にとって身近な存在である。

楽しかった二つの家庭へのホームステイの思い出とともにこれからもマレーシアとのつながりは続いていく。


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# by mlst | 2007-01-16 17:25